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歴史の話題「魚河岸と化粧回し」 

 河岸では、昔から役者が市川團十郎を襲名するとき、舞台の引幕と彼が演じる助六の鉢巻を贈ることを恒例としている。團十郎を贔屓役者とし、その関係で成田山新勝寺との縁も深い。しかし、魚河岸に贔屓の力士がいて、その力士に化粧回しを贈ったという話はあまり聞かない。
 私が市場にいたころ、たしか鮪屋の有賀さんらが、昨年亡くなった北の湖(のちの理事長)が横綱になった時、彼に化粧回しを贈ったのが、魚河岸が力士に化粧回しを贈った最初の例だと思っていた。しかし、江戸時代にもあったのである。その力士の名は黒岩川右衛門と小野川喜三郎である。
《江戸の魚河岸には負けず嫌いの人が多かった。だから彼らは自分たちが贈った化粧回しを締めた力士が負けて恥をかくのを恐れて、いかなる力士にも化粧回しを贈らなかった。 しかし、ある時、魚河岸で粗暴なふるまいをする御料理番方の下役人を目にした黒岩は追い返した。その後しばらくして、光格天皇の御前興行で、行司の吉田追風のために「気負いあり」と言われ、相撲を取らぬうちに負けにされてしまった。当時は行司が高い権威を持っていたから、軍配一つで潔く立つことが当然とされていたし、対戦者の気負いによって勝負の決着をつけることがあったからである。黒岩の相手は不明だが、上方者と対戦したことは間違いない。力士にとって御前相撲を取ることは無上の光栄と考えられていたから、立ち合いに負けを宣告された黒岩は損な立場になった。この判定で黒岩に同情した魚河岸の人々は、以前役人を懲らしめてくれたお礼も兼ねて化粧回しを贈った。かくして黒岩は魚河岸の贈った化粧回しを締めた初めての力士となったのである。結果、魚河岸から化粧回しを贈られた力士は天明年間に活躍した黒岩(関脇)と寛政年間に活躍した小野川喜三郎だけであった。因みに小野川は寛政元年、谷風と共に横綱になった。》
 以上は岩手県在住の遠山英志氏の書かれた「百家風発」からの引用だ。
 2017年5月17日の朝日新聞(朝刊)に次の記事が載っていた。題は「北の湖の夢 再興ならず」。内容は《大阪相撲直系の最後の横綱北の湖親方は、一代年寄の北の湖とは別に「小野川」の名跡を持っていた。大阪相撲出身の江戸中期の5代横綱小野川までさかのぼる名跡だ。大阪市生野区の成恩寺。現役時、ここに歴代の小野川が眠っていると聞いた北の湖親方は、無縁仏となって山積みされていた代々の墓石を掘り起こし、一緒に出てきた三保ヶ関、時津風の墓石とともに永代供養した。(後略)》
 彼は小野川が魚河岸から化粧回しを贈られていたことを知っていたのであろうか。不思議な縁である。
(2017-11-25 全国歴史研究会常任理事・石田謙司)

     

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