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                                          ■新刊紹介
                                          ■わが著書を語る

 ■わが著書を語る■
【更新 14-07-03】

■『藤田能登守信吉』  志村 平治

 平成21年のNHK大河ドラマ「天地人」の放映以降、直江兼続とその主君・上杉景勝は全国的に知られるようになった。このドラマでも景勝が、簡単に上杉家を継承できなかった事、越後内乱を容易に平定できなかった事、織田信長軍との死闘で窮地に立った事などが描かれていた。景勝はこうした軍事的苦難を乗り越える過程で権力の集中化をすすめ、近世大名となることができた。その最大の功労者は直江兼続であることには間違いない。
 しかし、初期の景勝政権を支えたのは兼続だけではない。「狡兎死して走狗烹らる」ではないが、景勝の軍事的苦難を突破する上で功のあった武将たちが、景勝の権力集中化の過程で排除されている。
 排除された武将は村上(山浦)国清であり、上条政繁であり、本書の主人公「藤田能登守信吉」である。
 信吉は武蔵を発祥の地とする藤田氏の分家・用土氏の出身で、小田原北条氏、武田氏、織田氏と主君を変えた。織田信長の滅亡で上州沼田城を追われ牢人となった信吉を、その軍事的能力を買って、迎えてくれたのが上杉景勝である。しかもいきなり重臣としてである。信吉は越後内乱の平定戦などに大活躍し、景勝の期待に応えた。信吉の上杉家へ忠誠心は厚く、豊臣秀吉亡き後、徳川家康と結ぶべきとし景勝に諫言する。このため、家康と対決・抗戦姿勢の直江兼続と強く対立。兼続は「信吉は徳川に内通している、誅殺すべし」と景勝に讒言する。これに堪らず信吉は上杉家を出奔する。追われた信吉は、従来、家康に「上杉氏に謀反の疑いあり」と言上した悪党・奸物と評されてきた。しかし信吉は、上杉家の滅亡を望んでおらず上杉家の存続を願っていて、家康より上杉征討の会津への道案内をせよと言われても「上杉家に対し二心なし」とこれを辞している。このことから、信吉は上杉・徳川両家の調停に失敗し、その旨を家康に伝えただけであろう。しかし結果的に上杉家の内情を伝えたことになり、家康に上杉討伐のきっかけの一つになったことには間違いないであろう。兼続は関ヶ原の合戦で西軍に与し、結果、上杉家を百二十万石から三十万石に没落させた。もし、景勝が信吉の諫言を受け入れたとしたなら、上杉家は百二十万石を維持出来た可能性は大であろう。
 本書はこの藤田信吉の実像に迫るものである。本書が、藤田氏に関心のある方、武蔵・上野・越後・会津などの歴史に関心のある方の一助となれば幸いと考える。

◆著者自己紹介=しむら へいじ
 昭和二十六年長野県中野市生まれ、長県郷土史研究会、信濃名族研究会。日本古城友の会、全国歴史研究会などの会員。主な著書『北信濃の武将村上義清伝』『信濃高梨一族』『信濃須田一族』『信濃村上一族』『信濃屋代一族』など。

★本書『藤田能登守信吉』はA5判128頁・平成26年4月・歴研刊・定価=本体2000円+税
*本書の購入ご希望の方は、本誌挿入の会員応答係行葉書に書籍名・冊数を明記の上ご投函ください。
■『越後村上氏二代 村上周防守(義明と忠勝)』  志村 平治

 新潟県の北部の村上市に石垣造りの立派な村上城跡がある。かつて「村上のようがい」と呼ばれた山城であったが、これを近世の平山城に大修築したのが村上周防守義明(頼勝)である。義明の養子忠勝の代に村上家は改易される。私はこの義明・忠勝の二代を越後村上氏と呼んでいる。
 私は北信濃の戦国武将村上義清をはじめとする信濃村上氏を永年調査研究してきた。その過程で、義明が義清の子孫であると記す史料(『藩鑑』『断家譜』など)を目にして以来、興味を持ち越後村上氏二代に関連の史料・資料の収集、取材などをしてきた。
 そして、「越後村上氏二代記」(『創立三十周年記念誌信濃郷土』平成十九年九月刊)を発表した。その中では、義明の没年を元和二年九月頃とした。その後、平成二十年になって、義明が帰依した大徳寺大慈院に義明の過去帳などの存在を知った。この過去帳には義明の没年は慶長九年五月二十八日とあって、「越後村上氏二代記」の内容を改訂する必要があった。また、義明・忠勝の二代共に同じ「周防守」を称したため、忠勝の事績を義明の事績と混同し、越後村上氏はあたかも義明一代であったかの如く誤解した書籍が多い。そこで「越後村上氏二代記」の内容を見直すと共に、義明と忠勝二代の周防守の事績を再整理し、資料集的にまとめたのが本書である。
 村上義清が武田信玄に追われ越後に走った。当時幼年だった義明は、義清の縁戚の尾張守護斯波氏を頼って尾張に赴く。ここで、もともと斯波氏の家臣であった丹羽氏と接触、客分として丹羽長秀に仕えるようになる。織田信長の徳政令施行の折には、代官となった長秀の下代として活躍。山崎の合戦で功あり近江知内浜城主となる。さらに賎ケ岳の合戦の功で長秀が120万石の大々名となると、羽柴秀吉の指示もあって、義明は加賀小松城主に抜擢される。そして慶長三年には越後村上城主となって、慶長九年に義明は没した。義明の跡を甥で養子の忠勝が継ぐが、元和四年に村上家は改易となった。詳細は本書を一読願いたい。
 本書が村上一族・越後村上氏に関心のある方、近江、加賀、越後などの戦国史に関心のある方などの一助になれば幸いと考える。

◆著者自己紹介=しむら へいじ
 昭和二十六年長野県中野市生まれ、長野県郷土史研究会、信濃名族研究会。日本古城友の会、全国歴史研究会などの会員。主な著書『北信濃の武将村上義清伝』『信濃高梨一族』『信濃須田一族 須田相模守満親』『信濃村上一族』など。

★本書『越後村上氏二代』はA5判192頁・平成24年2月・歴研刊・定価=本体2000円+税
*本書の購入ご希望の方は、本誌挿入の会員応答係行葉書に書籍名・冊数を明記の上ご投函ください。
■『信濃村上一族 村上源五国清』  志村 平治

信濃村上氏は信濃国村上郷(長野県坂城町)を発祥の地とし、南北朝時代に村上信貞の時、信濃守護職に任じられた名門である。この信濃の名門大名ゆえに、武田信玄の侵攻に徹底抗戦したのが村上義清である。義清は上田原の合戦、戸石城の戦いの二度、信玄を打ち負かした勇将である。しかし、武運拙く、越後の上杉謙信のもとに亡命し、上杉家の客将として信濃旧領復活を悲願とする。義清の子が源五国清である。父義清が越後に亡命した天文二十二年(1553)、国清はわずかに八歳であった。謙信はこの国清を自分の養子とし「長尾源五」を名乗らせ、のちに上杉一門の山浦氏の名跡を与え「山浦源五」とし優遇した。一方では、謙信は、国清を信濃のもと大名村上の子の立場を尊重し、国清のことを「村上源五」とも呼び、信濃回復した折には信濃大名復活を約束する。
 天正十年(1582)、上杉景勝の代、信濃川中島四郡は上杉家の支配するところとなり、国清は海津城(長野市)代として信濃に復活した。「古き秩序(室町将軍家を支える分権社会)」の復活を目指した謙信と異なり、景勝は「新しき秩序(中央集権化)」の構築をし、近世大名化への脱皮を図ろうとしていた。上杉家ではもはや、国清を客将(亡命大名)でなく家臣として扱かおうとする。しかし国清は上杉の家臣となることを望まなかった。
 もし、謙信が国清を養子にするなど優遇しなければ、越後を頼った他の信濃諸士のように国清は上杉の家臣となったであろうか。私は、そうは思わない。信濃大名小笠原長時・貞慶父子は武田氏に信濃を追われ、一時上杉謙信を頼った。しかし越後に留まることなく方々を流浪し、貞慶は天正十年壬午の乱で信濃大名に復活、徳川譜代大名となった。もし、国清が謙信から優遇されず流浪でもしていたら、貞慶同様に大名に復活した、と思っている。
 私は昭和五十七年以降、村上氏関係の資料収集などを行って現在に至っている。平成三年には『北信濃の武将村上義清伝』を上梓した。その後、同書の記述を大幅に見直し・訂正したいと思うようになっていた。また、私のポリシーは他の執筆者が取り上げない埋もれた武将たちを題材にする、というものだ。そのため、あえて村上義清でなく、村上国清を中心として村上一族を本にしたわけである。
 本書は、村上氏関係の子孫・村上氏研究者の方々だけでなく、信濃・越後・越中などの戦国史に関心のある方々に必見の書と思っている。

◆著者自己紹介=しむら へいじ
 昭和二十六年長野県中野市生まれ、長野県郷土史研究会、信濃名族研究会。日本古城友の会、全国歴史研究会などの会員。主な著書『北信濃の武将村上義清伝』『信濃高梨一族』『信濃須田一族 須田相模守満親』など。
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★本書『信濃村上一族』はA5判192頁・平成23年4月・歴研刊・定価=本体2000円+税
*本書の購入ご希望の方は、本誌挿入の会員応答係行葉書に書籍名・冊数を明記の上ご投函ください
*「わが著書を語る」(1000字)を募集いたします。締切は毎月20日。