激動戦国を生き抜いた明智光秀の長子光慶

〜明智光秀の長子光慶は、鹿児島大崎に逃れた〜

谷本 英子(全国歴史研究会本部会員)*2016-08-06(土)


はじめに

 明智光秀研究の第一人者高柳光寿著『明智光秀』によると、

フロイス書状によれば、坂本落城の際、明智の二子はそこで死んだという。長子は十三歳で、欧州の王侯とも見えるような優美な人であった。彼らは今日までも現れないから、噂通り死んだのであろうと思われるが、逃げたというものもある、とある。(略)それにしてもフロイスが光秀の長子を欧州の王侯のように優美であったというのは、光秀その人の教養を語っているものともいえるであろう。

 とあります。宣教師ルイス・フロイス(1532〜1597)は、キリスト教布教のため、日本にやってきて、名ある戦国武将と交流があり、日本での出来事等を情報収集して、本能寺の変以後に光秀の長子が逃げた旨を本国ポルトガルに書状を送っているように、明智光秀の長子光慶は、坂本城あるいは亀山城から逃げたと伝承されています。

 私こと谷本英子(旧姓:柳別府)は、明智光秀・光慶直系の末裔です。開門岳(別名:薩摩富士)の麗姿を西に見る大隅半島南東部に鹿児島県曽於郡大崎町下永吉柳別府村があり、この地で子ども時代、父母姉弟五人で過ごした。どんの下と呼ばれる場所に住み、どんの上には、祖母の家がありました。

 大崎町は、古くから都(奈良・京都)と大陸(朝鮮半島・中国等)との交易要衝の地として栄え、縄文・弥生遺跡が確認されています。古墳時代には、全長132mの前方後円墳横瀬古墳が築造されています。平安末期には、平家の貴人が柳別府近くの宮園に逃れたと伝えられ、宮園氏系図によると安楽城主平氏の末裔となっており、宮園家の墓地には、宝塔が数多く並んでおり、中には鎌倉期中期以降と思われるものもあります。1470年、肝付兼光が大崎城を築き、この時代、大崎では、竜相城、野御城等の山城が築かれました。1577年、島津氏の支配下となり、新大崎城が築造されました。

 子どもの頃、柳別府の山城のような小高い山頂に立つと、朝な夕なに潮の香りが届き、そこから南に目を向けると松林が見え、その向こうには黒潮洗う桜貝の海・志布志湾、そしてはるか向こうには太平洋の水平線が見えました。今、その一帯は、白砂青松の景勝を誇る日南海岸国定公園(横瀬海岸、大崎海岸〈くにの松原大崎〉など)に指定されています。7キロにも及ぶ松林を北に向かい、小さな部落中尾村を抜けると田園の中を一本道が走っています。かつて田園を遮る山坂の入口には氏神どんが村の守護神として祀られていました。月初めと十五日には、村人達がお供え物を持参して登ると一段高い小山の上に、亡き父(明治三十六年〜昭和三十二年)の生家、柳別府家がありました。

一、まぼろしの山城「道智城」

 砦のようにも見えた木々に囲まれた格式あるその屋敷は、村人達から通称どん=i殿)と呼ばれ、その庭の奥には、古びた赤茶色の高さ2m半程の鳥居があり、鳥居をくぐると苔むした「菅原」、「明智」、「柳別府」の三つの石碑があり、その奥には柳別府庚申供養塔、そのまた奥には、墓石のような小石群がありました。『大崎町史』(1997年)には、柳別府庚申供養塔(1739年の銘、1976年に町指定文化財となる)だけが記載されています。

 小山の上にあった柳別府家は、山城「道智城」跡に建っていたと代々伝えられてきました。その山城の名前の由来は、菅原道真の「道」と明智家の「智」から名付けられたと伝承されてきました。教育委員会発行の『大崎町地名集と墓の移り変り』には、堂地・道地の地名が紹介されていますが、城の存在を証するものは、地元に伝わる古文書や『大崎町史』にも道智城は全く出てこないので、その城は、光慶の隠れ居城であったのでありましょう。

 江戸中期頃には、柳別府家の一部を寺子屋として村人達に開放して、村の中心的な場所を担っていたと伝え聞いています。本能寺の変以降、柳別府家はこの地にて、農業等で生計をたてながら、四百年余の歳月を刻んできました。

 今から約四十余年前に、柳別府家があった小山は、ブルドーザーによって削り取られて、現在は、白砂の平地と化し、太平洋戦争の最中に見た、砦の面影、鳥居、「菅原」、「明智」、「柳別府」の石碑、柳別府庚申供養塔、小さな墓石群も泡沫と消えてしまいました(庚申供養塔だけは昭和五十三年に移設され、現在も見ることができる)。

 平成十一年初夏、柳別府直系男子である大阪に住む私の弟、柳別府武志(昭和十一年生)に、突然に鹿児島在住の父の異父妹である叔母(当時、八十四歳)から電話がありました。武志の話によると、明智光秀・光慶直系子孫・柳別府家の顛末記で一子相伝ともいうべきものでありました。その当時、弟は、会社経営(平成十一年五月、大崎町と立地協定締結後に工場操業)で忙しく、電話による一子相伝の内容については、半信半疑のまま、十余年が経過しました。

 平成二十六年五月、かねてより私と弟武志の姉弟二人の念願であった大阪府岸和田市にある臨済宗派本徳寺訪問が叶いました。ご多忙な中、古川住職に話を伺うことができました。住職の話によると、本徳寺の縁起は、本能寺の変後、明智光秀長子光慶が京都妙心寺に一時逃れて、その後出家して南国梵桂となり、現在の場所に移建したとのことであります。また、住職の話によると、光慶は、父光秀と自分の墓を寺敷地内に建立して、寺を立ち去ったとのことです。この寺には、日本で唯一の若き日の明智光秀肖像画が所蔵されています。間近に拝見して、住職に柳別府家の一子相伝の話をした上で、「この肖像画は、光慶本人ではないですか」と質問すると、住職は、その見解もあるかもしれないと答えてくださいました。本徳寺を立ち去る際、住職が私共の姿が見えなくなるまでお見送りいただいたのが印象的でした。

 十七歳まで大崎に過ごした私と弟武志(二人の歳を足す百六十余歳)の姉弟が、かつて見た光景を脳裏に刻み、当時の記憶を繋げながら柳別府家の由縁を明らかにしていく歴史探訪の旅が、岸和田市本徳寺訪問から始まりました。

二、柳別府庚申供養塔

 『広報おおさき』(2015・4)によれば、「六十日に一度の〈庚申〉の日に徹夜して眠らずに身を慎めば長生きできるという信仰があり、その信仰のもと建てられた石塔」とありますが、柳別府家にあった庚申供養塔に、村の人々が詣でるのは、月初めと十五日でありました。

 柳別府家では、明智光秀の子女が1582年6月15日の坂本城落城で滅亡したといわれている日を命日として、庚申信仰にカムフラージュして、先祖である明智一族と学問の神様菅原道真を供養し、昭和の世まで村民と柳別府家が柳別府庚申供養塔を維持管理してきたのではないかと思います。

 残念ながら、昭和五十年代に、父の異父弟によって、代々営んできた屋敷山が売却され、その際に小高い山は、削り取られて、柳別府庚申供養塔下に埋蔵されていた宝物は、処分されてしまいました。1582年6月、本能寺の変、坂本城落城に明智光秀一族滅亡の風評が流布され、明智光秀を、謀反人とのレッテル付け、秀吉の政策等により、歴史上から抹殺されてしまった土岐明智家とその家臣など多くの魂を鎮魂する碑である供養塔は、光秀長子光慶逃亡の日から百五十年余の歳月を経て、1739年に建立されました。その前には、「菅原」、「明智」、「柳別府」の三つの石碑があり、供養塔の下にある明智家再興のための埋蔵金を守護するかのように、並んでいました。

 1602年、徳川家康により大隅日向諸県郡(鹿児島県大崎町)の本領は安堵され、大崎永吉の柳別府家においてもようやく潜伏生活が終止、安穏な日々が暮らせるようになりました。江戸幕府開府、大坂冬・夏の陣がありましたが、戦乱の世は終わり、徳川政権下においては、家康の知遇等によって、明智一党は、復活(明智光秀の重臣斎藤利三の娘、福が三代将軍家光の乳母となり、徳川家光を支えて、のちに天皇より春日局の号を賜る)し、明智家の再興という本懐は、成就することとなり、再興資金の埋蔵金は、使用されることはありませんでした。

三、一族の由来と柳別府毘沙門天像

 『角川日本史事典』によると「別符」とは、《 中世に官物などの「別納」が認められた土地。本来、開発などで旧来のものと別個の支配体制ができたとき、それの別納を認める別納徴符などを意味したが、次第に別納が実施される土地そのものに変化した 》とあります。

 平成十六年十一月、訪れた大宰府歴史博物館の担当者に、「別府」の由来を尋ねると、対応していただいた歴史の先生の話によれば、九州大宰府に左遷された菅原道真が、大宰府の長として、南九州開拓を担い、初めて荘園整理の命を下したとのことです。開拓を担い率いた組織のリーダーを 別府 ≠ニいうとのことです。恐らく、柳別府一族が南九州まで進出する際の中継拠点として球磨川上流の地を土地開発したのでありましょう。903年、道真は失意のうちに没するが、熊本県球磨川上流域の地で上北柳別府を拠点として、柳別府一族は南下して、現在の鹿児島県(旧日向大隅国)の一部を開拓したのでありましょう。

 平成二十五年三月、熊本県あさぎり町を訪問し、最初に町役場に立ち寄りました。時代はさだかではないが、あさぎり町役場が保存する『くま川日記』には、上北柳別府が瑞祥寺(熊本県日吉市・臨済宗妙心寺派)の知行所であったことが記録されています。

 また、『くま川日記』には、瑞祥寺の知行所被官の悉くが斎藤姓であると、書き留められているが、応対した担当者によれば、その理由については、明らかでないとのことでした。

 あさぎり町には、天正九年六月(1581)に斎藤一族が寄進したという町指定有形文化財の毘沙門天があるというので、柳別府正伝寺(臨済宗妙心寺派)を訪問しました。正伝寺境内に茅葺の阿弥陀堂があり五体の仏像が安置されています。その一つ木造毘沙門天(北方守護の多聞天が単独で信仰され、戦国時代は、護法戦勝の神として戦国武将が保持していた)立像は、像高73・7p桧材一木造で彫眼、彩色されてはいるが時代を経てかなり色あせています。作者は賀吽。

 台座裏の墨書銘には「敬白奉造立 多聞天一躰 旦那林長五良左衛門尉、九代三良丸、内方豊袈裟、息災延命、家内安全、子孫繁昌、牛馬眷屬等、無災自在 諸人愛敬 村中安全 故也仍如件」とあり、斎藤若狭守 同、三良左ェ門尉 同、源左ェ門尉 同、三良兵尉 同、因幡守 同孫 四良 乙女 龍満女 袈裟女 豊松女の十名がすべて斎藤姓で祈願して製作したとある。この当時、若狭を支配していた若狭守護武田元明は土岐一族の出なので、墨書銘にある斎藤若狭守は、土岐一族の出と思われます。

 あさぎり町旧家にある代々続く庄屋の日記には、年号不詳だが、上北柳別府にいた武士達が一夜にして忽然と姿をくらましたという記述があったということをこの庄屋の末裔の方から話をうかがいました。

 この町には起源がはっきりしないが江戸時代から踊られている柳別府太鼓踊りがあります。町HPによれば、水牛角兜を冠った頭、鹿角兜の脇、鍬形角兜のセキの役がありシャグマを冠った鉦打ちの少年がそれぞれに付く。太鼓の打ち方、兜の振り方、足さばき、目配りなど見事。氏神を中心に雨乞いに関わった農村の伝承芸能であるとあります。恐らく武芸をたしなむための行事が祭りへと転化したのでしょう。

 天正十五年(1587)、豊臣秀吉が熊本を通り南下した九州征伐からの逃避、あるいは太閤検地、人払令で、身分が明らかになるのを嫌って柳別府一党は南下して、日向国諸方郡永吉(現鹿児島県曾於郡大崎町永吉)に移り住んだのだろうと思います。

 『大崎町地名集と墓の移り変り』によれば、平安時代末ごろ、地方豪族が大宰府や国の特別の許可を得て開墾した所を「別府」といい、柳別府には、西柳、東柳、柳別府、柳原と柳のつく姓も多く、またその地名の由来ははっきりしないということですが、光慶に従った家臣団であろうか、柳別府地区の墓地には、桔梗家紋が際立って目立っています。

四、一子相伝

 明智光秀・光慶直系の柳別府家は元来、家系図を残さず、また家系図を禁忌としていました。本能寺の変以降、謀反人との世評を慮んばかったことにより、子孫達には、一子相伝で代々、柳別府の由来を伝えてきました。私の父柳別府英次には、一子相伝はされず、父は明智光秀・光慶直系の事実を認識していなかったと思われ、父が亡くなる時(昭和三十二年)でも、私どもの姉弟には、そのことを一切語ることはありませんでした。

 平成十一年初夏、大阪に住む私の弟武志に、突然に鹿児島在住の父の異父妹である叔母から電話がありました。武志の話によると、その電話は一方的で一時間にもおよび、明智光秀直系子孫・柳別府家の顛末記で一子相伝ともいうべきもので驚きを禁じえなかったとのことです。武志は、長時間の電話料金のことが気になり、武志のほうから、詳細については、鹿児島にいってから伺うといって電話を切ったとのことでした。

 残念ながら、叔母は、武志と会うことなく、その年の九月に八十四歳で他界しました。なぜ、武志に一子相伝されたのか。恐らく一子相伝された叔母の弟 (父の異父弟)が八十一歳で平成十一年五月に逝去したので、歴史的に重要な一子相伝を柳別府直系男子である武志に託したのでありましょう。武志から聞いた一子相伝の骨子は、次の四つでありました。

その一、柳別府家は明智光秀直系の子孫であること
その二、柳別府家がある敷地が道智城跡であり、その由来について
その三、柳別府庚申供養塔下に眠る宝物とその処分について
その四、大宰府と柳別府家との由縁

 武志から一子相伝の内容を聞いた時は青天の霹靂であったが、一子相伝にある山城・道智城のあった小山の痕跡を知る者としては、大いに納得のいくものでありました。

五、志布志大慈寺と明智光慶

 柳別府一党が、日向国諸県郡大崎郷にいつ頃進出したのかはっきりしないが、本能寺の変以降であることは明らかであります。

 天正三年(1575)五月、薩摩の島津家久(当主義久の弟。1547〜1587)が、伊勢参拝の途中に、坂本城に立ち寄り、明智光秀の接待を受けています。同年七月、信長の奉請により、光秀は、朝廷より九州の途絶えた名族「惟任」の名字と「日向守」を与えられています。信長による九州平定の準備が整い、明智一党は、先行して球磨、日向に進出したと考えられます。大崎町では、土岐一族の出と思われる比志島美濃守が初代地頭となり新大崎城を構えています。天正八年(1580)、比志島美濃守が仮宿に多門院を創建し、毘沙門天を奉納しています。球磨では、翌年(1581)、現あさぎり町柳別府正伝寺に、土岐の出と思われる斎藤一族が毘沙門天を奉納しています。

 一説によると本能寺の変以後、明智光秀長子の光慶は、妙心寺の塔頭瑞松院に住して出家して「玄琳」を名乗ったとのことです。なお、瑞松院は光秀の妻煕子の実家妻木氏が檀那であります。岸和田市本徳寺の住職によれば、光慶は妙心寺に逃れて、その後、貝塚の海雲寺(移設して寺号改め本徳寺となる)に入ったとのことです。

 天正十五(1587)、明智光秀の叔父光宗和尚が、光秀弔いで妙心寺に「明智風呂」を建立しています。この頃には、光慶は、現在の鹿児島県大崎町柳別府に拠点を移したと思われます。大崎町柳別府より東に二里ほどの所にある日向国志布志・妙心寺派大慈寺にて、秘密裏に僧侶として研鑽を積みながら、明智家供養と明智家再興のため、堺・大坂・京との妙心寺派ネットワークを構築していったのではないかと考えています。

 平成二十六年十二月、大慈寺石田住職より、大慈寺縁起書を頂戴しました。その縁起書によると大慈寺中興の祖といわれる龍雲和尚は、戦国動乱期、志布志新納家に生まれ、志布志城が落城した際、逃れて出家した。甲州恵林寺にて土岐一族の出といわれる快川国師に師事しました。信長による恵林寺焼打ちに遭遇するも、一説に明智光秀の計らいで難を逃れたとのことです。龍雲和尚は、光秀の恩義に報いるためにも、自分の経歴と類似する光慶を極秘に支援したのではないかと考えています。光慶は、大慈寺では、南国梵桂と名乗っのでしょう。恐らく、薩摩宋学の始祖、桂庵玄樹の一字をとったのであろうと思います。なお、薩南学派一門には、光秀と親交のあった島津家久、光秀旧臣ともいわれる伊勢貞昌が名を連ねています。

 諸説ありますが、慶長年間の頃、光慶は、泉州・貝塚に海雲寺を開基したと思われます。恐らく、寺号は世話になった大慈寺にあった海雲庵に因んだのでしょう。その後、寺は焼失し、寺号を岸和田藩主岡部氏の命により本徳寺に改め、岸和田に移転しました。岡部氏は、家康の娘を妻とし、丹波国内に所領を有し、亀山城を守り、福知山城主、大垣城主、高槻城主を経て、岸和田城主となっています。一族の経歴から推測すると、岡部美濃守一族が、光秀の善政をよく知った上で、光秀ゆかりの寺を支援して、岸和田に移したのでありましょう。この寺には、烏帽子をかぶり素襖を纏い優美な武将の肖像画が光秀画像として伝わっています。

 慶長十八年(1613)、この肖像画を蘭秀宗薫が賛を記しています。この肖像画は、光慶が家康の知遇を受けたその好機到来の喜びの時に、自分自身である若武者の晴れ姿を描かせたのでありましょう。

おわりに

 尾崎秀樹は『歴史の中の地図・司馬遼太郎の世界』(1991年)の「国盗り物語」で、《 主殺しの汚名をきせられた人物は、いずれも出自がアイマイだ。これはひとつには、関係者たちが後難のおよぶのをおそれて家系を昏ましたこともあるが、なによりもやはり後世の史家たちによってオール否定された結果といえよう。私たちは彼らを歴史の忘却の淵から、救い出し、新しい時代の脚光に照らし出してやらなければならない。しかし隠滅された史料は容易に埋めることができない。作家の役割は、その空白の部分を想像力によって塗りこんでいくことだ。》と記述しています。

 石橋忍月『惟任日向守』(1894年)は、謀反の光秀を評し、恵林寺の焼き討ちでは、信長に焼き討ち皆殺しをやめるようつぎのように説得したと描写しています。

《 ……神社仏閣は人の心を清めて、人世の闇を照らし、人に優しき心を起さしめて、安心立命の地を得せしめ、天道を繋ぎ人心を繋ぐに一日もなくてはならぬもの。(略)一朝にして之を灰燼に委ね玉はんこと、天道を破り、宗旨を滅ぼし、人情習慣に戻り、歴史の美蹟を損ねて、兼て国家の典章に反くに似たり。》

 私ども姉弟は、尾崎秀樹が語ったように、光慶の空白部分を比叡山延暦寺、甲州恵林寺焼き討ちを手がかりに、埋めていきました。

 多くの歴史書等を読んでいますと、石田三成の一子が出家して生き延びた、秀頼の一子が出家して生き延びて、死ぬ間際に、秀頼の子であると遺言した事例があるのがわかってきました。

 一子相伝にあるように光慶は出家して、球磨・日向大隅に逃れました。一説によると恵林寺の快川和尚(光秀の師)のもとに修行していた二人の僧侶(南化玄興、龍雲和尚)が、光秀のおかげで、焼き討ちの難を逃れて、南化玄興は妙心寺へ、龍雲和尚は志布志大慈寺(妙心寺派)に入ったとのことです。光慶は、この二人の高名な僧侶の庇護のもと成長し、大崎郷柳別府を拠点に、大慈寺と妙心寺のネットワークを使って、日向大隅と泉州・京を往還したのだと思います。本徳寺住職の話にもあるように泉州で光慶は、父光秀を弔うため、寺を開基して父光秀の墓、自分の墓を残して家康のもとへと向かったと思います。

 天海と光秀が同一人物であるとの異説があります。その根拠として、

 一、天海が造営に深く関与した日光東照宮の建物装飾、人物像衣装に、土岐明智家の家紋である桔梗紋が多い。
 二、日光の景勝地を天海が明智平と名づけた伝承がある。
 三、光秀家臣斉藤利三の娘福(後に春日局)が、三代将軍家光の乳母となった。
 四、初めて天海が家康と会った際に、旧知の仲のように語りあったとの伝承がある。
 五、初めて天海が福にあった際に、福がお久しぶりですと挨拶したとの伝承がある。

 と、ありますが、私は、光秀の年齢からみて、天海が光秀長子光慶であると考えています。

 本能寺の変前に、光秀・光慶親子は、京都愛宕山西坊にて、里村紹巴等と連歌の会を興行して、光慶は最後の百韻の句「国々は猶のどかなる時」を神前に奉納しています。光慶は天海となって、徳川家を助けて、父光秀が為し得なかった戦乱の無い平和な治世を築きあげるのに貢献したのだと思っています。天海は、信長が焼き討ちした比叡山延暦寺の再興、泉州でも信長に焼き討ちされた天台宗末寺の再興に尽力しています。

 江戸の真北・北極星下の聖地にある日光東照宮と光秀の生誕地岐阜県可児市と岸和田本徳寺が一直線上にあり、また、日光東照宮と岸和田本徳寺と志布志大慈寺がほぼ一直線上にあります。

 今回の調査では、南光坊天海が、明智光慶こと南国梵桂が過ごした現鹿児島県大崎町永吉柳別府にふたたび帰還した形跡を発見することができませんでした。

 明智光秀・光慶親子の足跡を訪ねる私ども姉弟の歴史探索の旅は一旦終えることにします。岸和田本徳寺では、光慶が残した伝光秀肖像画を見ることができました。いつか機会あれば、坂本城落城の中、運びだされた明智一族の宝物が眠っている東京国立博物館や日光東照宮を訪れてみたいと思います。

 戦後、大崎町を出て、大阪市東成区、岐阜市そして岐阜県可児市に移り住んだ。偶然にも、その場所は、土岐一族明智光秀ゆかりの地でありました。飄々となりわいのまま生きた八十余年を振り返ると、その歳月は一途に明智の痕跡をたどる道程であり、感慨深いものがあります。

 私の歴史探索に常にエールを送り続けた先祖・明智の消えた歴史を貴重な紙面を借りて披露できることは、何よりのはなむけであり、供養でもあるばかりでなく、子孫への伝承でもあります。

 お力添えいただいた各方面の皆様に深く感謝とお礼を申し上げます。

◆筆者紹介=たにもと ひでこ
岐阜県可児市在住。主婦。明智光秀直系子孫。

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