トップページへ
◎全国会員から

■珠玉の寄稿作品一覧
 


全国誌『歴史研究』第659号より

*平成29年11月21日から翌年1月20日までに編集部で受け付けました「応募作品」を、本号第659号として、ご紹介させていただきます。
*記載は、まず、■で応募作品テーマ名、次に★で応募作品の題名、そして@筆者名(敬称略)、A居住地名、B筆者による内容紹介文(アピール文)です。
*ご寄稿いただきました皆様に厚くお礼を申し上げます。
*ここに、ご紹介させていただきました作品の掲載につきましては、編集部にご一任いただければ幸いです。

■史談往来

★「浄福寺城を訪ねて」
@斎藤秀夫A東京都八王子市B――

★「姫街道」
@斎藤秀夫A東京都八王子市B――

★「朱印帳めぐり今昔」
@川村一彦A大阪市城東区B昨今、巡拝ブーム「朱印巡り」が盛んである。昔なら、遍路・観音巡拝には納経帳に朱印を受けて、廻ったもの、いまや神仏の垣根を越えて老若男女がマイカー。バスツアーと名所、古刹に朱印巡り、作法もあるが、楽しく伝統文化、歴史習慣に触れ合えるならばそれも大いに意義がある。

★「日野富子と応仁の乱」
@橋本晋吉A奈良県宇陀市Bいまから約五百五十年前の応仁元年(1467)京の都が一面焼け野原となった。いわゆる応仁の乱の勃発である。約十年もの永きにわたるこの大戦乱のさなか、天下を牛耳った一人の女性がいた。その名を日野富子(1440〜1496)という。富子の最大の武器は財力であった。関所を設けて銭を集め、商人たちから税を徴収し、最終的に貯めた金銭は七万貫(現在の金額で約七十億円)にも及んだという。富子の夫は、室町幕府第八代将軍足利義政(1436〜1490)である。義政は銀閣寺の造管に熱中し、嫡男義尚(1465〜1489)は政務そっちのけで昼夜酒色に溺れていた。将軍の務めを果たさない夫と長男に代わり、富子は高利貸しや賄賂で集めた財力によってなりふり構わず幕府を支えていた。本稿においては、その波瀾に満ちた日野富子の人生に焦点を当て、応仁の乱について考察するものである。

★「大空を仰いで」
@内藤好文A山梨県甲府市B――

★「四日市港修築を蔭で支えたタカ女」
@清水勝也A三重県松阪市B――


★「秩父神社と秩父夜祭」
@大澤俊彦A山梨県甲斐市B12月3日の秩父夜祭に行ってきました。「秩父神社」「妙見信仰」「武甲山」「秩父夜祭」
について調べました。

★「井上泰助」
@夢酔藤山A東京都あきる野市B近藤勇の刀持ちを務めた新選組の少年隊士・井上泰助。井上源三郎を叔父に持ち、試衛館時代の新選組幹部とも接点があったとされる泰助。「PEACE MAKER 鐵」だけじゃない少年隊士の足跡を追いかける。

★「動乱を生き抜いた江幡五郎の波乱の生涯」
@竹村紘一A神奈川県川崎市B――

★「鉢形城と北条氏邦」
@斎藤秀夫A東京都八王子市B――

★「能登国誕生」
@斎藤秀夫A東京都八王子市B――

★「ラファエル・フォン・ケーベル先生」
@八木輝夫A長野県長野市B夏目漱石のケーベル先生に関するの二つのエッセーを読んで心を打たれ、尊敬の念を抱いた。ある日、雑司ヶ谷霊園にある夏目漱石のお墓を訪ねた時ケーベル先生のお墓と出会った。

■特集 なぜ、いま応仁の乱か

★「応仁の乱の謎」
@樋口慶伍A東京都町田市Bいつの時代にもある後継者争い、お家騒動の応仁の乱について考察した。 

★「応仁の乱と熊谷在直」
@唐川雅爾A兵庫県尼崎市Bこの乱は義政の紊乱政治と後継問題に管領家内紛が絡む権力争いとされる。『応仁記』に義政諫言した勇気ある人物の事が載る。

★「応仁の乱と現在の世相」
@乾 浩A千葉県横芝光町B混沌とした社会の中で莫大な財政赤字を抱え、産業形態の変化、富裕層、貧困層の分化と格差の広がり、また、労働形態の多様化と雇用形態の変化による不正規労働者の増加等々、将来が見通せないという不安要広がりつつある。この世相と室町後期の政治的・経済的情況、争乱による階層分化とが類似していることから、いま『応仁の乱』の書物が脚光を浴びているのではないかと推測し、その視点から論述する。

★「日野富子」
@前川浩一A愛知県豊田市B悪女の如くいわれいるが、我が子に盲目の愛をかける富子は、どの様に評価されるのか。 

■特集 国分寺の謎

★「聖武天皇と国分寺」
@川村一彦A大阪市城東区B唐王朝の仏教による鎮護国家に影響された聖武天皇は、大仏建立と諸国に仏教があまねく伝えられるように国分寺の配布を目指した。廬舎那仏は仏界の盟主として、国々の隅々まで照らし国家安泰を祈願し、諸国には国分寺・国分寺尼寺の配布によって朝廷の威光と権威が行き届くように造営されていった。

★「国分寺・国分尼寺の誕生」
@橋本晋吉A奈良県宇陀市B
国分寺・国分尼寺は、奈良時代の天平十三年(741)、聖武天皇の発願により、各国ごとに設置された官寺である。設置された場所は、これまでの考古学的成果(具体的に埋蔵文化財発掘調査)から、各国府(津令制下における地方支配の拠点として設置された役所〈政庁〉)の近くであった。宝亀年間(770年代)には、ほぼ全国に県立されたものと考えられている。国分寺は、正式には「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺は、「法華減罪之寺」と称し、僧網を置き、各々に一定の封戸・水田のほか、出峯利稲を付与した。国分寺・国分尼寺の設置は鎮護国家を実現すると共に、中央集権・民衆支配強化のための精神的支柱となった。
 本稿においては、国分寺・国分尼寺の正式名称に視点を置いて、朝廷における仏教政治の推進の様相について検証を試みるものである。

★「相模国国分寺と寒川神社」
@樋口慶伍A東京都町田市B――

★「恭仁京の変貌」
@岩谷隆行A大阪府大東市B今回はマイカーでの歴史探訪という少しリッチな企画を提案してみましたが、当会では不思議とこの手の論文は見受けられません。

■特集 なぜ、いま西郷隆盛か

★「美しき青きドナウと西郷大佐」
@中根一仁A千葉県船橋市B第一次大戦時、捕虜となったドイツ人が習志野の捕虜収容所に収容されていた。所長の西郷寅太郎は自分の過去を照らし合わせ、捕虜たちに武士の情けをもって誠実に対応した。

★「明治維新の創業者「西郷隆盛」─『西郷南洲遺訓』の教え─」
@橋本晋吉A奈良県宇陀市B――

■特集 女たちの幕末維新

★「海を渡った女曲芸師たち」
@中根一仁A千葉県船橋市B日本最初のパスポートは、慶応二年に江戸の手品師「隅田川浪五郎」がパリ万博に出場するために幕府が発行したものだ。その一行に多くの女性曲芸師たちが同行していた。

★「強い絆で結ばれた武市半平太と富子」
@竹村紘一A神奈川県川崎市B

★「奔放な嫁」
@夢酔藤山A東京都あきる野市B天才と呼ばれた夫に添えるのは、並の女ではない。並でない女を妻としたからこそ、天才は我が儘に生きていける。凡人に理解できない夫婦の世界。佐久間象山の妻・順。海舟を兄に持つ彼女は、むしろ象山以上の傑物だったかも知れない。

★「陰に徹して。尾高喜世の生涯」
@奥田 豊A埼玉県深谷市B男たちは主義をかかげ夢に向かって生きた。しかしその陰で家を守り、男を支え続けた女性がいた。そして夫が檜舞台に立った時、その生涯を終えた尾高喜世の話である。

■特別研究

★「かり路地遊時之歌に想う」
@中村正義A大阪府寝屋川市Bこの歌が単なる大王賛歌でなく、人麻呂にとって重要な分岐点であり、政治的、歴史的な意味を持つと考え、応募しました。

★「古代天皇の虚実と架空天皇の即位年について」
@萱嶋完彦A千葉県習志野市B――

★「女帝の祈り―百萬塔と称徳天皇―」
@橋本晋吉A奈良県宇陀市B平成六年(1994)三月一日から一か月間、奈良国立博物館において「国宝法隆寺展」が開催され、多くの国宝が展示された。その中に百萬塔といわれる小塔が多数出品された。『続日本紀』には、百萬塔は今から約千二百四十年前の宝亀元年(770)四月に完成したことが伝えられている。百萬塔は、コケシなどを挽く木工用の轆轤を使って作られた木製の三重小塔で、製作された数が全部で百萬基あることからこの名前が付けられている。塔の基底部には、製作年月日・製作者名(工人名)・製作場所(左右京の工房)が墨書きされており、小塔の中には版本の「無垢浄光大陀羅尼経」が納入されており、これは現存する印刷物では世界最古のものである。工芸品という点だけではなく、教信仰を知る上でたいへん貴重なものである。本稿では、百萬塔の製作経緯を当時の政治状況を交えて検証するものである。

★「日本書紀と御暦三考」
@國田郁雄A北海道札幌市B『日本書紀』は、実録に加え長暦の暦数を含み、いずれの暦法も、儀鳳暦(太陽年365.25日)に基づくと思われる。

★「ベニバナは垂仁天皇の赤絹」
@石井 好A千葉県我孫子B金原正明氏によると、ベニバナ花粉が纏向遺跡から出土する事から3世紀中頃の物と断定しています。ベニバナが纏向遺跡から出土する事は金原教授のいう通りでしょうが、3世紀中頃(250)とは限らないのです。ベニバナは垂仁天皇の赤絹と考えられます。時代は4世紀中頃(360年頃)と考えます。110年ズレています。
★「応仁の乱 西軍総帥 山名持豊入道宗全
その知られざる兄弟について 」
@川本斉一A東京都台東区B――

★「室町期 関東の動乱―鎌倉府体制の考察―」
@田中眞佐志A埼玉県蓮田市B近年、南北朝の乱〜応仁の乱が注目されていることには驚かされる。ただ、これを関東の動乱に拡大して整理する試みは、事の煩雑さも手伝って手ごろな文章は余りない。今回、たまたま「鎌倉草紙」を入手する機会に恵まれたので、そのまとめを試みた。

★「地球球体説と地動説」
@尾上深雪A千葉県千葉市B古代ギリシアで発展した地球球体説と地動説の起源とその証明をめぐる様々なエピソードを明らかにすることで、真実が明らかになるまでの歴史を振り返りたい。

★「纏向遺跡の木製仮面」
@石井 好A千葉県我孫子市 B卑弥呼時代の3世紀前半(225年年頃)の木製仮面と言いますが、桜井市教育委員会の見解は誤りと考えます。各種の疑問があります。教育委員会は、疑問に答えてください。この仮面は4世紀代(300年以降)の物です。
(以上)


全国誌『歴史研究』第658号より

*平成29年10月21日から同年11月20日までに編集部で受け付けました「応募作品」を、本号第658号として、ご紹介させていただきます。
*記載は、まず、■で応募作品テーマ名、次に★で応募作品の題名、そして@筆者名(敬称略)、A居住地名、B筆者による内容紹介文(アピール文)です。
*ご寄稿いただきました皆様に厚くお礼を申し上げます。
*ここに、ご紹介させていただきました作品の掲載につきましては、編集部にご一任いただければ幸いです。


■史談往来

★「第三の男」
@斎藤秀夫A東京都八王子市B――

★「天下の美拳」
@斎藤秀夫A東京都八王子市B――

★「斎藤利三主犯説への一私見」
@吉田 浩A沖縄県豊見城市B石谷家文書が発見されて本能寺の変の主犯は斎藤利三ではないか、その様に思うようになりました。稚拙ではありますが、考えをまとめてみました。

★「安房高野山」
@夢酔藤山A東京都あきる野市B里見家と高野山の蜜月。八犬伝ではない里見正史から紐解く歴史を見直してみよう。

★「書紀が隠した倭の五王」
@森野修範A滋賀県草津市B日本の始まりが中国の帝国に劣らぬ古いものである……とするために初代天皇神武を終点とする年代の大偽装計画があった。偽装終点の年代を古く見せるのは日本史を長く見せるためであったが偽装開始点の目的は? それは日本の赤恥になる事を隠す事に重点があった。槍玉に上がったのが倭の五王である。仁徳天皇の昔から新しい天皇が即位すると東晋や宋帝国へご挨拶に赴き「安東将軍倭国王」に任命してもらうのが通例だった。時が下ってこんな媚び諂いは隠したくなったのである。

★「歴史研究会と私」
@田村紘一A大阪府大阪市B今年は歴史研究会が創設六十周年になるという。私は設立三年目からの会員で現在に至る。私の人生半分は城と歴史趣味で過しており、家内から我家は母子家庭といわれていた。

★「春成秀爾氏の大失敗」
@石井好 A千葉県我孫子市B国立歴史民俗博物館の炭素14年代法によると、箸墓古墳の築造時期を245〜265年頃と断定しています。箸墓古墳は250年頃に築造されたと考えています。この事実は本当の事でしょうか? おかしな事実があるので、「箸墓古墳を卑弥呼の墓」といえるのでしょうか。結論は歴博の「卑弥呼の墓説」は間違いと考えます。

★「それからの後北条一族〜高野山〈小田原坊〉」
@小澤真里A東京都品川区B小田原開城後、北条一門は高野山への蟄居を命じられる。高野山の北条家の墓所を訪ね、彼らが身を置いた「小田原坊」と呼ばれる宿坊に泊まり、降伏後の小田原北条家の足跡を辿った。

★「北条五代の娘たち北条早雲の娘「長松院殿」と伊豆の金龍院」
@小澤真里A東京都品川区B北条五代が大河にならない理由のひとつは、ヒロインがいないからだとよく言われます。他家から北条に嫁いできた女人ではなく、北条家にもドラマチックな人生を送り、与えられた任務を果たした女人が多いことを知ってほしく、彼女たちの足跡を辿っています。


★「『ずいずいずっころばし』音楽&文学の著作権寸感」
@小滝晴子A神奈川県川崎市B2017年9月号『歴史研究』bU54の斎藤秀夫氏の会員随想「ずいずいずっころばし」を拝読。子供の指遊びの俚謡にも、庶民の悲しい生活と政権批判が籠められていることを知り、感慨深く思ったまま一筆する。

■特集 結城一族の謎

★「結城勤王史 建武の中興における結城一族の忠節」
@橋本晋吉A奈良県宇陀市B――

★「晴朝の誤算」
@毛矢一裕A東京都練馬区B――

★「白河義親の謎」
@平田好子A東京都昭島市B白河結城義親(不説斎)は、庶流の小峰氏出身といわれる。その義親が白河氏当主となった経緯や、父親のことなどを探った。

★「結城氏朝と結城合戦」
@道福清延A神奈川県相模原市B――


★「白河結城一族と南朝政権」
@乾 浩A千葉県山武郡B白河結城家の二代目当主結城宗広と嫡男親朝、次男親光、三代目当主顕朝などと後醍醐天皇が推し進めた建武の親政、さらに、北畠師房、顕家らが主導した南朝政権との関係を探り、なぜ白河結城一族が朝廷側の武将として戦ったのか。また、宗広、親光死後に、親朝と顕朝は足利方に寝返ったのかを、鎌倉末期・南北朝期の政治的背景と社会情勢に基づいて検証する。

■特集 いま、なぜ西郷隆盛か

★「過激でごわすか」
@夢酔藤山A東京都あきる野市B西郷という人物は維新の前後で大きく人物が変わる気がする。吉之助と呼ばれた時代、これほど過激に奔った男も珍しい。隆盛と呼ばれてからはクリーンに徹している。しかし、その本質は、身に巣食う過激の狂気が満ち溢れていたのではあるまいか。西郷の人物像は明治政府の創り出した幻想かも知れない。


■特別研究

★「「仏教者」聖徳太子についての一考察」
@橋本晋吉A奈良県宇陀市B聖徳太子(574?622)が果たされた政治的功績は、非常に多岐にわたっており、その後の我が国の進路について指針ともなるべき大事業であった。『日本書紀』には、冠位十二階の制定、憲法十七条の制定、遣隋使の派遣、四天王寺・法隆寺等の建立、「天皇記」「国記」等の国史の編纂、といったように内政・外交にわたって我が国を指導されたことが記録されている。そこには、隣国隋との国交によって大陸文化を導入しようとする革新的政治姿勢と共に、国史の編纂事業等からは我が国の歴史を後世に正しく伝えようとする伝統的政治姿勢が窺われ、国政を指導する立場として、太子の並々ならぬ努力が偲ばれる。また、太子には真摯なまでの「仏教者」としての一面もあった。
 本稿においては、この「仏教者」としての聖徳太子の側面に焦点を当てて考察を試みようと思う。


★「『日本書紀』年暦を解明」
@太田輝夫A愛知県大府市B『日本書紀』には年暦に謎があるが、年暦には理由がある事がわかった。その解明により、古代天皇の謎はすべて明らかになった。

(以上)